東海楽器製造株式会社 3

  私は静岡県浜松市にある「東海楽器製造株式会社」の、非常に良かった時期から・・・経営状態が
 悪化して『和議申請』を出した年(1985年です。1984年と掲載されているページを、たくさん見かけ
 ますが、1984年度末のことです。)まで在籍しておりましたが、非常に面白い会社であったことは確か
 です!
  ですが・・・主に「木材」を原料として生産する楽器が多かったので、根本的に「採算割れ」になる危険
 性を常に有していた事も確かです。 入社して2,3ヶ月位した時点で・・・「これって、絶対に無理なのと
 違うの?」思ったのも事実です。高卒で入った若者にも、その事はわかりました。

  何故なのか?  木材を使う楽器は(特に木目を重要視する楽器は)、使うことが出来る材料が限定
 せれてしまいます。特に、ある程度の量産をするメーカーにとっては・・・表板を一枚一枚で購入する様
 な効率の悪い事は行なわない。当然、まとめて大量購入する事によって、仕入原価を下げるのですが、
 そうすると、当然の事として使えない材料が入っていたりするのです。例えば、「木目が綺麗でない」と
 か、「綺麗な木目だけれど、フシがある」等々、単なる「材木」としたら良くても、見た目を重要視する「楽
 器用」としては使えない物が入っていたりするのです。また、表板に使う材料は『柾目』の板を使うのが
 基本なのですが、『柾目板』は英語で『クォーター・ソーン』と言って、丸太材から4分の1しか取れない
 材料なのです。丸太で購入すると、4分の3は無駄になると言う事でもあるのです。そして、木材は伐採
 されても「生きた材料」でもありますから、その材料が持っている『癖』によって使えない材料になってし
 まう場合もあります。

  この様に、ギターなどの木材製品は原材料から製品になるまでの間に、どうしても『無駄』が出やすい
 宿命を持っていると言えるのです。 これが、個人製作で年間に十数本程度なら、一枚一枚の材料を
 吟味して購入したうえで無駄なく製作する事も出来るのですが・・・年間何千本も製造するとなると、そう
 はいかなくなるのです。

  こういう事情で、東海楽器の会社規模から言うと・・・中途半端な大きさだったのです。『ヤイリ・ギター』
 の様に少人数なら良かったかも知れないのですが、従業員数は400人位はいる中堅企業?でしたから
 ね?どっちつかずの状態?でしたと思います。

  しかし、当時の社長・・・足立 忠之氏は、その辺の事情は良くお分かりでした。そして、非常に面白い
 考えをお持ちの方でした。 私は営業部に所属しておりましたので、一般の従業員よりもお目にかかる
 機会が多かったかもしれませんが、非常にユニークな方だなと、いつも思っておりました。表向きでは、
 大場 敏夫 常務が全般に取り仕切っている様にも見えたのですが、実際には足立社長が東海楽器を
 リードしていた様に思います。

 こちらが、当時の社長である

  足立 忠之 氏です。

 太平洋戦争中は、大場常務
 と共に中国大陸におれれて
 いろんな悪戯もやった?
 と言う、楽しいお話もたくさん
 聞かせていただきました!

  どの様な、ユニークな考えをお持ちだったのか?(あたりまえの事も多いのですが・・・)

  『営業の衆は、売り易い商品を作れ作れって言うが・・・何〜んもしや〜せんで、売れる商品なら
   営業マンなんか、いりゃ〜せんって言うこったら〜?』
   (遠州弁です。本社の衆?は、皆さん遠州弁でしたね?)

  ごもっともな御意見でした!

  『手作りが良い、手作りが良いって言ったって〜丸太から全〜部、手で彫る必要なんてね〜ら?
   最後の大事な所だけ手作業でやりゃ〜? それまでんところは、機械でやったって・・・?』

  と、言う事で導入されたのが、業界初?の「コンピューター制御の三次元NCルーター」でした。この機械
  の導入でエレキギターのボディーなどが、圧倒的な速さ・正確さで生産出来るようになったのです。

  『木材を使って、無駄が多いんなら・・・木材を使わなきゃ良いら〜? ギターを作るのに、木材以外
   を使っちゃいかんって法は無いに!』

  『や〜木材と特性が違って良い音が出ないんなら、木材と同じ様な特性で良い音が出る素材を開発
   すりゃ良いら? そっしたら無駄なんか、み〜んなうっちゃちまえるじゃね〜か?』

  と、言う発想で開発されたのが・・・・アルミ合金の素材を使ったボディーのエレキギター『タルボ』であり
  カーボン素材を使って作られたエレキギターの『MAT(マット)』シリーズでした。
   『MAT』は、木製ネックから発売しましたが後にネック素材もカーボンで作った、オール・カーボンの
  ギターへと発展して行きました。

   これらの革新的なギターは・・・まったく売れませんでした?

  ユーザーが、革新的なこの考えに付いて来れなかった?ようでした。(後に、見直されて評価が上がった
  ようでしたが・・・) しかし、それらの技術を開発し商品化したわけですから、東海楽器の潜在的な能力は
  やはり、非常に高かったと言えると思います。

   この様な考え方は、「ピアノ」にも使われました。ピアノの音を出す機構を「アクション」と言いますが、
  それまでの一般的な考え(常識)では、すべて木材で作るものだったのですが・・・非常に細かい部品の
  集合体なので、木材の場合はどうしても「狂い」や不良部品が出やすくなり、また、多くの部品の一つ一つ
  を製作しなければならないのです。

   『なら、プラスティックで作っちまえや!』と言う事で、プラスティック製のアクションを導入したのですが・・・
  ギターの世界なんかよりも遥かに「保守的」なピアノの世界ですから・・・販売は、非常に苦戦いたしました。

   ま〜これらの設備投資と開発費など(特にピアノ生産への設備投資)による資金繰りの圧迫と、円高が
  主な要因となって経営が立ち行かなくなって・・・『和議申請』という状況になったと言う事らしいのです。
   特に我々営業部の者には、円高の影響が大きかったと言う事をよく耳にしました。当時の東海楽器は
  輸出による利益も結構有ったらしいのです。貿易部が、「1ドルが170円までなら、なんとか頑張れるけれ
  ど・・・それ以下になったら無理だよ!」と、よく言っていたのを覚えております。

  これらが、東海楽器が「和議申請」をした当時の会社状況を内部の人間として見ていたところです。

  当然、私は一番の「下っ端」従業員でしたから、確実な事とは言えないとは思いますが・・・


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