東海楽器製造株式会社 2

  東海楽器に就職して浜松に住み始めたのですが・・・浜松、そして東海楽器とはどのような所だったのか?

  まず私が浜松に行って、非常に驚いたこと? 
 
  それは・・・バイクが多いこと! さすがに、HONDA、YAMAHA、SUZIKIの発祥の地です!
  もう一つ、大変におどろいたこと! 

    子供が「野球」を、やっていない?  これは、カルチャーショックでしたね!

  私は、野球の聖地「甲子園」の地元・兵庫県の出身ですから・・・休みの日の小学校では、子供は「野球」を
 するものと無意識のうちに思っていましたが・・・浜松では、そうではなかったのです。

   浜松の子供たちがやっていたのは、「サッカー」でした! さすがサッカー王国 「静岡県」です。
    (これは、「Jリーグ」が発足する遥か以前のことです。)

  他には、夕日が綺麗!これは感動でした。私の生まれ育った兵庫県宝塚市は、西側に「六甲山」などの山
 があるので、夕日が赤くなるより先に山影へ入ってしまうのです。ですから、綺麗な夕日が見れるのは年間に
 数えるほどだけなのです。 それが、浜松では毎日でした。そして、街が静かなこと!これは、逆に言うと宝塚
 が騒々しいと言うことですか? 電車の音、大阪空港へ発着するジェット機の音等々。
  
  特に東海楽器の本社は、「寺脇鉄工団地」の中(田んぼの中)にありましたから・・・
  

 これが、浜松市寺脇町36に有った東海楽器
 本社です。残念ながら、もう存在しません。
 
 大きな建物の間に有る、長いプレハブ造りの
 建物が、食堂と「サービス・センター」が有っ
 た所です。
  右側に、原材料置き場、自然乾燥場が
 ありました。
 この工場内で、ギター、ピアニカ、ピアノなどを作って
 いました。ギターは主に量産品で、高級な手工品は
 「寺島工場」の方で生産されていました。

  画像では、「キャッツ・アイ」の生ギターが、ズラリと
 並んでいますが、私が入社した頃から「Tokai」ブランド
 のエレキ・ギターが主力になって行きました。
 こちらは、バンジョーの生産ラインです。
 と、言ってもバンジョーは極少量生産だったので、
 小さなスペースで2,3人位で生産されていました。

  奥の方が、バンジョーのカタログでも紹介されて
 いた、「野沢さん」です。

  寺脇の本社工場で生産されていた生ギターは、量産品がメインだったのです。
 CE150〜CE300の量産品、CE400〜CE600の半手工品を生産していました。
  CE800以上の高級・手工品は、浜松駅の南側に有った「寺島工場」で作られていました。

 こちらが「寺島工場」です。

 こちらは、大きな動力機械が無かった?ので
 非常に落ち着いた雰囲気でした。

  こんな感じの工場だったのですが・・・ギター作りの工場と言うと・・・専門の、大ベテランの職人さんが
 一つ一つ丁寧に・・・と、言うイメージを持たれ易いのですが・・・(上の画像の様な?)

  実際には、何処にでもいる「その辺のオバチャン」がたくさん、時間に追われて一生懸命に作業して
 いる?と、言う感じでした。決して特殊な工場ではなかったです。極々普通の生産工場で、作っている
 ものが「楽器」だって言うだけでした。

  ただ、遠州浜にあった「寮」には全国から集まった「楽器好き」が多く住んでいましたので、常に楽器の
 音にあふれていたと言えますね?

  ここが「遠州浜寮」でした。

 私は、3階と4階に住んでいました。
 遠州灘(海)から非常に近い所で、常に波の音が
 聞こえていました。(非常に大きな音で、慣れるまで
 時間が掛かりました)ただ、遠州浜は「遊泳禁止」
 なのです。波が荒過ぎて・・・

  この建物は、現在の「東海楽器 本社」です。

  私はこの東海楽器本社に半年以上(一年近く?)勤務した後に、大阪営業所に転勤になりました。
 大阪営業所で私は、主に配送などの倉庫業務と電話番をしておりました。大阪営業所への転勤にあたり
 大場常務が、「や〜吉田くんよ!君は電話受けが上手いから、うまくやれるよ〜」と言っていただけたのが
 非常に自信になったことを良く覚えています。 そして、いずれは営業業務へ・・・
 
  しかし・・・ギター作りがしたくて、東海楽器に入社したのに・・・だんだんに面白くなくなっていったのも確か
 です。 「転職するか〜?」とも、思ったのですが・・・楽器にかかわっていたいのも確かで・・・

  そんな時に、会社側から面白い話が・・・「当初の約束も、あるので・・・君に修理の仕事をやってもらいた
 い。」と・・・私にとっては、願っても無い事でした。配送業務の関係で、小さな修理とかは行なっていたのです
 が、今度はもっと本格的な修理も行なうことによって経費節減と言うことだったらしです。
  そう言う事で、「本社サービスセンター」でしばらく「リペアー」の勉強をする事になりました。

  そこで巡り逢ったのが、今やギター修理で有名な『鳥居 秀樹』さんでした。

 この方が、私の師匠?である『鳥居 秀樹』さんです。

 東海楽器に入社後、ハーモニカ、ギターと生産現場で勤務後に
 1972年から「修理部門」で、ギター修理を担当されてこられた
 大ベテランでした。

  今現在は、独立されて自宅の浜松市南区御給町で、修理
 工房「大鳥楽器」を経営されておられます。

  鳥居さんは・・・何時も冗談を言ってる楽しい人です。
   奥さんも非常に良い人で、夫婦そろって典型的な
  「はーまつ(浜松)」の人です。(私のイメージ)

 ですが・・・根は、非常にまじめな方です!! ホント!
 鳥居さんの指導の下に、基本的なギター修理をいろいろと 
 勉強させていただきました。 作業環境の作り方。道具の仕 
立て方等々、今でも参考にさせてもらっている事ばかりです。

東海楽器本社工場の中に「サービスセンター」はありました
ので、修理用の材料や修理の為に必要な小物を作る材料は
たくさん有りました。廃材としてゴミ箱に入っていた端材が、
今現在の生産されている高級ギターなんかよりも、良い材料
ばかりでしたね?                           

  そうして1年近く本社・サービスセンターでお世話になった後に、大阪営業所へ戻りました。
 ただ、大阪営業所には何も設備は無く、また他の業務もあるので・・・サービスセンターで行って
 いたような作業は出来ませんでした。そう言う事もあって・・・だんだんと、楽器業界から自分の
 気持ちが離れて行ったように思えます。また、丁度同じ頃に東京営業所では・・・ 「押しかけ社員」
 として東海楽器に入り、ギターリペアの仕事を始めて・・・今や、有名ギタープレーヤーからの信頼
 も厚い、超有名リペア・マンになられた『今井 雅春』氏がおられました。同時期に東海楽器に在籍し
 ていたので、営業全体会議などで顔を合わせたことが有ったかもしれないのですが・・・私には覚え
 がありません? 数年前に、東京高田馬場にある今井氏の工房へお邪魔して、お話をさせていた
 だいた事がありますが・・・面白い、変った方でしたね?

  そうこうしながら時が流れて行き、会社の景気はだんだんと悪くなり(後に和議申請・1985年前半?)
 ・・・私自身の楽器関係の仕事への情熱も冷めて行き・・・また、バイク事故が元で長期欠勤したのが
 きっかけとなり、1985年9月?に6年間勤めた東海楽器を退職することとなりました。

  楽しい事がたくさん有った東海楽器での生活でしたから、寂しさもありましたが・・・楽器業界を中に
 入って見てみると、非常に矛盾する所もたくさん見え・・・先行きの不透明さから、「もう潮時かな?」と
 思っていたのも事実です。

  退職後の転職とかはまったく決まっておりませんでしたので・・・「とりあえず、しばらくゆっくりと・・・」
 と、思って信州長野へバイクでツーリングへ出かけました・・・

 
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