東海楽器製造株式会社 1

  高校3年生の夏に進路の最終決定をした時に、「就職します!」と言って担任を喜ばせた?のですが、
 その時に具体的に、「東海楽器へ就職したいのです。」と言ったものですから・・・進路指導の先生は大変
 だったでしょう? いろいろと手配していただいて、送られて来たのが下の会社案内です。

 これがその時の、会社案内の表・裏表紙です。

 結構、しっかりとした物です。
 今でも持っているぐらいですから。

  その後、会社見学で実際に浜松の東海楽器へ行ったのですが、その日はあいにくの雨が降っておりま
 した。総務部の「内藤さん」?が、案内して下さいました。本社工場、寺島工場、遠州浜寮と車で回って(その
 時の営業車を、その後よく使うことになりました)見学させていただいたのですが、非常に興味深いところ
 ばかりでした。寮もしっかりとした所なので、「ここにしよう!」となりました。

  そして、その後に「入社試験」が一応?あったのですが・・・「自分が、一番遠くから来ているのかな?」と、
 思っていたのですが・・・そうではなかったです。 九州から来ている人、新潟から来ている人等々いろんな
 所からたくさんの人が来られていました。入社試験の方は、「筆記試験」「面接」とあったのですが・・・

  筆記試験は、極々普通の内容だった覚えがあります。後で知ったのですが、その時の試験には中卒者も
 入っていたので、義務教育終了レベルの問題だったと言うことです。一問だけ今でも覚えている問題があり
 ます。・・・『山陽新幹線の開業年月日は?』、これは解りませんでした! 「物知り問題か?」と・・・

  面接は・・・親の育て方が良かったのか?そつなく受け答えをハッキリとした口調で堂々と?こなしたこと
 によって、無事に合格という通知を後日いただいて「東海楽器」へ入社することが決まりました。

  1979年(昭和54年)3月に正式に「東海楽器製造株式会社」に入社したのですが、遠州浜の寮に入寮する
 ことになったのですが、大部分の荷物はそれより以前に運んでおいたので、当日(入社式前日)は愛用の
 「Tokai T1200R」が入ったケース一つを下げて行きました。 寮は、一部屋二人が基本だったのですが
 当時は部屋数に余裕があったので一部屋一人で入りました。 

 これが「遠州浜寮」の内部です。

 これは、2回目以降の時ですね?
 何度か入寮しているのですが、慣れてくると
 あんまり綺麗にはしていなかったですね?

  入社式当日にはいろいろと行事があた覚えが有りますが・・・その中で、新入社員の配置発表が有りまし
 た。私の配置は・・・「営業部」となったのです・・・が、「え〜約束が違う!」と思いました。と、言うのも・・・

 学校と会社との間で、「生産部門への配置のこと」と約束を交わしてもらっていたはずだったのです。戸惑い
 つつも、文句を言えるはずもなくそのまま時は進んで行きました。 これも後で聞いた話だったのですが、約束
 は、会社側も意識はされていた様なのですが、生産部門へは工業学校などの卒業生を優先的に配置してい
 たこと、そして面接等の受け答えを見て、「営業部」となったそうです?しかし、営業部へ配置されたことが、
 結果として良かったように思います。

  この年の東海楽器は、営業力強化を打ち出していたらしく、営業部への配置は6人で、大学卒4人、高校卒
 2人でした。

  日付は3月22日になっております。 1979年3月22日 この日から約2ヵ月間の研修期間に入りました。

 初日の社長の言葉にこの様な事が書いてあります。

   「人生において、能力の差は小であり、努力の差は大である!」 そのとおりですね?

  研修期間は大変に面白かったですね。営業部ですから、会社のすべての製品のことを理解していなければ
 なりません。ですが他の部門は、2週間ほどで現場へ入っていましたから・・・「や〜あの衆は、優雅でいいや
 ?」てな感じで見られていたようです?

  研修期間終了後に現場配置だったのですが、大卒者はすぐに東京、大阪などの営業所へ配置されたので
 すが、私はもう一人の高卒者と共に「本社営業部」への配置になりました。本社営業部は、直接の営業活動
 はせずに、東京、大阪、中部、九州各営業所へのバックアップと全国からの問い合わせなどに対応する業務
 が主な仕事でした。たとえば・・・

 私が良くやっていた仕事に、ユーザーからの問い合わせに
 返答する業務があります。ハガキや電話での、質問やギター
 を購入された時に送っていただく「お客様ハガキ」に書いて
 ある質問などに、お答えするこたがありました。

  左の便箋は、その当時に実際に書いたものです。

 このページを見ていただいておられる方の中には、実際に
 この様な返答を見ていただいた方もおられるかも?

  この様な感じで、東海楽器においての生活が始まってゆきました。

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