昭和50年(1975年) 米谷秋祭り

   昭和50年(1975年)の、米谷だんじりです。

  米谷にだんじりが復活して3年目?
  (と、思います・・・その当時は、まだ直接には関わっておりませんでしたので・・・)
 
  曳行再開から3度目の秋祭りの画像を少々・・・
  (私は2度目の年である昭和49年の秋祭りは、足を捻挫して参加出来ていませんでした)

  場所は、「六軒茶屋」(清荒神)です。

  この頃は、カメラを持ち歩く事はなかった(それより、だんじりを触っていたかった!)ので、
  自宅のある、清荒神だけです。 さて・・・若い方々は何処だか判りますかね?

 阪急電車の踏切を渡った所ですね? 
 ほぼ同じ所です。

 「法被」を来ている人が、増えています。

 この年までに、法被を新作されていたようです
 前に入っている方々は、新しく作った法被を着て
 おられます。

 高欄の「弓張り提灯」が・・・バラバラに並んでいます。
 一応、提灯掛けは有ったのですが・・・バラバラです。

  ただ、弓張り提灯の数は「15」張りになっています。

 これは、だんじりの曳行が再開されると・・・それを、待ち
 望んでいた方は多かったらしく・・・いろいろと、「だんじりは、
 こうなんや!」と言う意見がたくさん寄せられたらしいです。
 (それが元で、不仲になられる方もあったらしいですが・・・)
 箕面宅前ですかね?

 後ろからですが・・・

 この年までは「東」だんじり
 一台での曳行でした。
 
 ですから、昼間に「六軒茶屋」
 に、上がって来ています。

 「米谷青年団」のHPに、この
 画像がUPされておりますが・・

 実は、私が撮った写真です!
 ここは・・・おそらく、「山崎医院」前です。

 今現在は、だんじりを道路脇へ止めて
 休憩出来るぐらいの広さが有りますが、
 当時はこれ位の道幅だったのです。

 これは、どの地区も同じでしたね!

 阪神大震災以前は、どこもこれ位の道幅
 しかありませんでした。

 ですから、通行する自動車もほとんど有り
 ませんでしたね?(すれ違いに困りますから)
 「宝中」(宝塚中学校)の同級生です。
 
 この年は、同級生がたくさん参加して
 おりました。(今でも多いですがね?)

 私の年代は、祭り好きが多いです!
 市内を全部集めると、同一年としては、
 最大人数になるかもしれませんね?
 この年は、曳き手の人数が非常に多かった
 ので? この様に、だんじりの横へも何人も
 ついていました。

 ただ、これは「法被」を着ていたが、こそ出
 来たことでしたね? 

 法被を着ていない者が、だんじりの横に
 入ると・・・大変、怒られました! 昔は・・・

 この時は、法被はどの様にして手に入れた
 のでしょう? 覚えていません。

 貸出だったのは確かですが・・・
 さて・・・その「法被」なのですが・・・。

 この法被が、当時の「米谷青年団の法被」です。

  着ている人は・・・米谷の者ではありませんね?
  後に「安倉だんじり保存会」の、『会長』になられる方です!

 法被の絵柄は「波に紋」で、色は「青色」でした。

 その青色に合わせて? 「黄色の帯」が付いていました。
 
 「鉢巻き」の色も、この法被の青色に合わせてか?

 「黄色」を使っている時期もありましたね・・・
 ですが・・・ここにもう1枚、違う法被が写っております!

 左側の若者(彼も私の同級生です)が、着ている法被です。

 これこそが、現行青年団が法被を作る以前に米谷で使わ
 れていた法被なのです。

 今使われている法被は「綿織物」で作られていますが、この
 法被は「富士絹」で作られていました。 
 ですから非常に「軽く」そして「しなやか」でした。
 文字や大きな模様はなく、全体に小さな「菊模様」が入って
 おりました。

 そして、何より・・・色が「紫」だったのです。

 今現在の「米谷の法被」は、私が青年団の団長を承った時
 に作った物が元となっておりますが・・・

 その法被を作る時に、どうしても復活させたかった色が、
 この法被の「紫色」だったのです!

   この年の祭りは、今考えても最高に楽しかったです!

  人出は多くて、賑やかで・・・本当に「祭りらしい、祭り」だったように思われます。
  その祭りの楽しさを、もう一度味わいたいが為に、祭りに参加し続けているように思います。

   それから、この年が売布神社へ東側から上がって行った最後の年だったように思います。

  売布神社へ上がる時は、祭りも最高潮に達していました。 と、同時に「酔っ払い共も」最高潮に達して・・
  小屋根にいる「酔っ払い?」が、酒と祭りの勢いで「御幣」を、ちぎっては投げちぎっては投げを続けて・・・
  宮へ上がった時には、「御幣」は・・・木枠の骨だけになっていましたね!

  また、売布神社の最後の参道の坂道は、後ろでだんじりを押す者が3列ぐらいんで重なって押して
  いましたから・・・それは、それは、迫力があったと思います。 
  (私達は、その中に入っておりましたから見えません・・・想像です!)

  このように、昭和50年の「米谷秋祭り」は非常に楽しかった覚えがありますが・・・次の年から・・・?

  法被の入手方法を思い出しました!

  祭り前(10月初め?)に、「15日に、米谷の公民館へ行けば借りる事ができるらしい?」と言う情報を
  得て、借りに行ったところ・・・「ここに住所、氏名、電話番号を書き込んで。」と、言われるままに自分の
  住所、氏名、電話番号を書き込んだのですが、実は・・それは、「米谷青年団入団申込書」だったのです!

   別に青年団に入るつもりは無かったのですが・・・成り行き上、米谷青年団に入れられてしまったと、
  言うことです。 ですから我々「荒神三人組」は、まんまと騙されて米谷青年団に入ったようなものです?

   ただ・・・人生には騙されておいて良い時も、有るようですな〜?
 
  どっこいしょ