Fiddle(フィドル)と言う楽器

 
 私が今現在のメイン楽器としているのが、Fiddle(フィドル)です。

「趣味で楽器を演奏します。」と言うと、必ず聞かれるのが・・・「どんな楽器を演奏されるのですか?」と言う質問です。

 これを聞かれると、困ってしまうのです? 何故か・・・「はい!フィドルをやっています。」と、言っても・・・「えっ、フィドルって何ですか?」っと、なるのです!
「 簡単に言ってしまえばヴァイオリンのことです!」・・・「どうして、フィドルって言うのですか?」ってな感じになってしまうのです。

 では、どうしてまったく同じ楽器に対して違う名前が付いているのか???

このあたりの事は、茂木 健さんの著書「フィドルの本」に詳しく書いて有りますので、ご興味が有られる方は、読んでみてください。

 ま〜簡単に言ってしまえば・・・クラッシック音楽で使われるのが「ヴァイオリン」で、それ以外の一般音楽、特に民族系の音楽に使われるのが「フィドル」と言っても良いかもしれません?
 この違いを見事に表してくれていた映画が有ります。 1997年の作品で、全世界で大ヒットした・・・「タイタニック」です。あの映画の中で、一等船室で上流階級?の方々に対して演奏されていた音楽に使用されていたのが、「ヴァイオリン」であり・・・三等船室の船底で下層階級?の人々が、大騒ぎでダンスに興じていた時に演奏されていたのが「フィドル」です。こんな感じで、まったく同じ楽器なのですが、使われる音楽、使われる状況によって呼び方が違うようなのです。

 しかし、日本の国へは「ヴァイオリン」と言う名称しか入って来ていません。ヴァイオリンと言う楽器は、明治維新以降に入って来たようです。そして、その当時の日本は先進国へ、何としても追い付かなければならないと言う意識が強くありましたので、当然のこととして、「最高のもの」ばかりを求めていたようです。ですから輸入される「音楽」も、最高のものを求めたのでしょう?

 ただし、その「最高のもの」をどう解釈するか?と言う事が、問題なのですがね?
おそらくは、その当時のヨーロッパ諸国は(アメリカはヨーロッパからの移民の国ですから、その元となるヨーロッパに目は向いていたのでしょう?)、まだまだ王侯貴族が支配者側として君臨していたので、その王侯貴族の子女たちが「たしなみ」の一つとして学んでいた「クラッシック音楽」(モーツッワルトの時代などは、一般大衆に対して演奏されるようなことはありませんでした)を、「最高のもの」としたのではないでしょうか?それらを、明治維新当時の日本を形作った人々は、世界と対等に渡り合う為の必要なものとして取り入れていったのではないでしょうか?その様な考えが、今現在の日本の人々の中にも有る様に思える事があります。

 でも・・・その様な「支配者階級」の人々の人口割合は、ごく少数だったはずです。(江戸時代の日本も、武士の割合は10%未満だったそうです) その他の大部分の人々には、「関係の無い」音楽だったのかもしれません? その大部分の人々が楽しんでいた音楽に使われていたのが、「フィドル」だったのです。ですから、考え方によったら・・・「フィドル」の方が正統派?(主流派?)の呼び方かもしれません?

 私も先祖代々、「大部分の人達」の一人ですので?フィドル音楽の方が、しっくりくるのかも知れません?

 ですが・・・支配者側からすると、その他大勢と自分達を同じとは考えたくはなかったのでしょう? ですから、自分達が使っているのは「ヴァイオリン」であり、下品な「フィドル」とは違うんだ!と、考えたのかもしれません。日本の中でも、「フィドル」を知っている一部の人の中には、その様な考えの方がおられるのも事実です。以前に大阪の新世界(通天閣のあたり)を、ぶらぶらと散策していた時に、たまたまヴァイオリン工房らしき所を発見して、外から眺めていると・・・中から、その工房の親方らしき人が現れて、「ヴァイオリンに興味をお持ちですか?」と尋ねてこられたので、「はい、大変興味があります。」と、答えると・・・「演奏はされますか?」と言われたので・・・「はい、フィドルを少々・・・」と答えると・・・「あ〜、あの汚い音でギイギイ鳴らすやつね」と言って工房の中に入って行ってしまいました。 その瞬間、私は非常に不愉快になったのは勿論ですが、それと同時に「ここの工房で作られる楽器は、大した事はなさそうだな・・・」とも思いました。 どの様な世界でも同じと思いますが、本当に良い「職人」は、先入観にとらわれない「良いバランス感」を持っているものです。それが無い人は、単なる「自己満足主義者」でしかないと、私は思います。最近は、個人の楽器製作者(特にギター)がたくさん活躍されていますが・・・その中には残念ながら、自分自身の「思い込みの世界」にはまり込んでしまって、「私は、『ルシアー』です。単なる職人と一緒にしないでください!」と言う感じの方が大勢おられるように思います。 しかし、私の考えでいくと・・・ヴァイオリンを作る人も、ギターを作る人も、また、家具を作る人も、家を作る人も・・・結局は、「単なる職人」のはずです。木材を原材料として物を作るのですから、すべて同じ「木工職人」のはずです。作る物が違うだけです。ですから、本当に良い職人なら作りたい物に対して最適な材料を、適材適所に最適な方法で使い、最良の物を作ろうとするでしょう。技に優劣はあっても、作る物に優劣は無いはずです!そんな目線で物事を見る事が出来るのが、「良い職人」のはずです。

 と・・・話がだいぶずれて行きそうですが・・・ま〜「フィドル」と「ヴァイオリン」の違いとは、そんな感じでしょうか?人間は、とかく物事に「優劣」をつけたがるのですが・・・それは、人間の性と言うものなのでしょう? と、言う事は・・・フィドルは、ある意味で「最も人間らしい楽器である」とも言えるかもしれません。

 もう一つ、フィドルについて書き足すと・・・フィドルを毛嫌い?したのは、支配者階級?の人々だけではなかったのです。
 実は、宗教関係者からも敵視されていたのです。フィドルは、「タイタニック」の映画の中でも描かれていたように、多くの一般の人達(農民や労働者)に音楽を提供する一番身近な楽器だったのですが・・・特にフィドルが大活躍するのが、宴会などの「飲んで、歌って、踊って」の場なのです。
 ですから・・・宗教関係者にとっては、フィドルは「人々を、快楽と堕落へ導く最悪の楽器」だったのです。 英語では、『Devil's Box』と言う、言い方があるくらいです。 実際に、「フィドルの演奏」を禁止にする為の法案がたくさん提出されてきた歴史があります。

 こう言う事で、「フィドル」と「ヴァイオリン」の違いがあるようなのです。ですが、日本には「ヴァイオリンと、その音楽」しか入って来なかった、と言う事なのでしょう?
 しかし、「フィドル」という考え方、言葉は入って来なくても・・・人間は万国共通です。同じ感覚は持ち合わせているはずです?世界各国どの場所へ行っても、そこには土着の音楽が有るものです。当然、日本にもあります。使う楽器が「フィドル」ではなかった、と言うだけです。

 ですから、「フィドル音楽」を好きになる事は、何もおかしな事ではないのです。

特に、楽器としてフィドル(ヴァイオリン)を見ると・・・非常に優秀な楽器なのです!

 私は、最も好きな楽器が二つあります。一つは「ピアノ」。そして、もう一つが「フィドル」です。
特に、使い勝手の良さは、「フィドル」が最高だと思います。フィドル(ヴァイオリン)は、使える音域が、人間の男女が歌える音域(およそ2オクターブ)と、ほぼ一致するのです。しかも、押さえるポジションを変えるだけで、演奏キーが変えられるのです!ピアノは、これが出来ません!何故なら、ピアノは一つの鍵盤からは、一つの音しか出ないのです。88鍵有っても、同じ音は一か所からしか出せないのです。しかし、弦楽器は同じ音を、何か所かから出せるのです。これは、凄い事なのです。
 ですから、どんなキーにも、どんな曲にも対応出来るのです。そうやって、人間が心のままに「音を楽しむ」事が出来るのが、『フィドル』と言う楽器なのです!!!


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